哲理を探求する

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真理とは言葉を超えたものです。しかし、あえて語るには言葉によらざるを得ません。真理から語られた言葉を無心で聞く者のみが、真理に近づくことができるのです。

無極造花の覚證

山口修源先生の言葉をお読み下さい。心に響く何かがあるはずです。

無極としての霊性

何に依って清浄を得る事が出来ようか。正に、自己に宿りし霊(たましい)への回帰を求め初めて可能と成るのである。

では、霊性とは何か。大徳は、如く言われるものである。天地万物を生みし無極の態を以て、その体を成し、形象に関与して尚一切の気を受けず、自在に存し、微細無量に亘りて余り有る、眞如の姿に他ならない。

無極は、太極を貫きて、欲界・色界・無色界を超越し巍然として、宇宙間を塞いでいる。終始にして終始無く、常住にして絶えず止まる事が無い。

常に、天地日月万有を絶対的慈愛を以て変則なく運行し、天地未判然たる際限の無い永遠の古えより、独り存在す。世人は太極を知りて無極を知らず。無極は無生無死であって寂然たる純眞体であり陽でもなく陰でも無い。正に無であり空である。而るに、無は無に非ずして、空も空のところ無し。凡ゆる有為の体形は、この空から生長されない物は無い。実に、色象を妙空に由って造花せられたものであり、この妙空を説明するに自然の形象を推して眞空の存在が証明出来るのである。

正しくそこに、世俗の諦による勝義空の顕彰を観るのである。其れ即ち「道」の開示に他ならない。

無極なる「道」は、相対物性を有せず。変化消長することも無い。凡有なる宇宙及び生物は、その内在する暗示的法則に於て動き、基くのである。

而し、人間の小智にてそれを判ずるは難く意識界を超勝した大自然の質量を示明出来ない。将に孔子様の言葉通り、「道は天地万物に普く流動している。其機は微妙にして隠れている。顕著なところは愚かな夫婦間でもよくわかるが神奥不測の妙処に至っては、聖人と雖も知ることが出来ない」のである。

天地創造の妙

形象、体物は気の合体であり、霊数を意味す。数の始めは○にしてまた一である。共に無極を意味し、道なる無極動じて太極を生ず。太極動じて陽を生み、動極して静と変じて陰を生む。之れを両儀と云い陰中陽、陽中陰の態を成す。

一動一静互いに相和交感し、茲に金、木、水、火、土五行を生じ士気を中と為して、四気順布して四時が循る。これに応じ変化を為し次第に万物が、生まれるのである。是れを「一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ず」と言う。万物は、必ず陰陽に挟まれて生育し、絶えず冲虚の原気が二気を調和している。

一即ち「道」は、万物万数の起点である。伏羲帝は一を画いて、「開天」となし、老子様は一を説いて「天地を生育す」と言われ、孔子様は、「吾が道は一を以て貫く」と曰い、孟子様は「夫れ道は一のみ」と語られた。正に天人一貫くの理を説かれてある。

一は、変化不可思議であるが至って自然であり、やがて万物を集結させる。凡ゆる慈愛と智慧をもて森羅万象、日月星辰、金木水火土を含む万端を変わりなき一定の法則によって養い育むのである。

古聖は「天(太極)は一を得て清くなり、地は一を得て凝まり、人は一を得て聖人となる」と語っている。

無極の位態

太古にして太古。未だビックバン以前の時、無極混沌として太極を生じ太極動じて(ビッグバン)天地を生じた。即ち、太極の清気軽く上昇して天となり、濁気重く下降し凝結して地となる。

無極は理の天にして、不動天であり、太極は気の天にして宗動天である。無極は陰陽の前に立ち、太極は陰陽を有すれど両儀未判定にして、流動変化出来ない。両儀を生じて陰中に陽を有し、陽中に陰を有して始めて万物を運行出来得るのである。

無極は、太極を所有し以て貫く。実に太極の外をも包含するは、言うに及ばない。無極の理は静にして経となし、太極の気は動にして緯となす。万物は、太極の浩然たる生気を得て然る後融結し、和合して形象を得、運行するのである。因縁仮和合の姿である。

無極には仁・義・禮・智・信の五常の徳が具備されている。更にいえば、八徳を有するも然りと為す。

では、我々に直接的影響を与える太極を見るに、元・亨・利・貞の四徳がある。勿論四徳は五常の原理に基くのは言うまでもない。「元」の徳は春に属し、此の気を受ければ草木が発芽し生気に満々る時代となる。

「亨」の徳は夏に属し、此の気を受ければ穀草枝葉繁茂して発育旺盛の時代となる。

「利」の徳は秋に属し、此の気を受ければ穀物果実成熟し落果収穫の時代となる。

「貞」の徳は、冬に属し、此の気を受ければ大自然、天地間の悉く休息の時代となる。

この元・亨・利・貞も、五感の徳がなければ運行されない。即ち「仁」にして、万物に平等の生育を与え、「義」にて、物事に一貫の理を適合し、「禮」にて、宇宙間に秩序品節を定め、「智」にて、複雑細緻な万有を微に至り、創造す。そして、「信」は、これらを統括し、天地間総てを変わりなく、一定の法則に従って運行するのみである。

これは、凡ゆる宇宙間に作き、万有はそれによって定まった変化消長の途を辿るのである。人の世もまた一貫せる栄・枯・盛・衰の眞理に従わねばならない。釈尊は一を得て、この事を「一合理相」と申された。

太極の位態

太極には陽儀と陰儀の元気が有る。陽儀は強く乾に属し、陰儀は弱く坤属す。元気の陽は子刻に生じ、元気の陰は午刻に生ず。即ち、子・丑・寅・卯・辰・巳は太極の陽儀で、午・未・申・酉・戌・亥は太極の陰儀である。両儀を二至二分して四象を生ず。陰陽固定すれば東西南北四方の位置は中を抱いて自然に判明され、気は変化して、春夏秋冬の四季に大別される。

四季に春分・夏至・秋分・冬至を加えて八節となし、是れが八卦の象化である。冬至を坎となし、立春を艮となし、春分を震となし、立夏を巽となし、夏至を離となし、立秋を坤となし、秋分を兌となし、立冬を乾となす。一節は三気を統どり、変じて二十四気となす。一気は三候を統どり、変じて七十二候となる。一気は十五日に分けられ、一候は五日に奇数し、毎年五日三刻余るがこれを気盈と言う。合して三百六十五日に分けられ、これを一週年という。

太極の気は半陰半陽であり、陰気は寒く、陽気は暖かい。陽気が上昇すれば春になり、百穀草木発揚し、夏と共に長じてくる。陰が下降すれば秋になり、樹木百草枯凋し冬と共に衰退す。即ち、陽気の上昇が、万物を収蔵するのである。六十四卦、七十二候、三百六十度、総て天地の経緯を表すものである。

この様に、眞理の妙ありて昼夜四季が古今を通じ謬らず、年年行流して息まず、周天を運転しているのである。我々の肉体生理もこれに遵じ、霊性はこの体を成す。この肉霊一体にして、尚異なるの真諦を感得した者に、聖への回復が成就されるのである。

この天地は気数・形象を以て存し、およそ陰陽二気に由って循環される物には凡て変化があり、変化があれば終始がある。万物は巡暦と気候に和すも、歳月とともに異常を来たし瓦壊して毀滅する。

この神理を真に解して、会員諸氏よ、修行に励まれよ。即ち「修源之法」にて、霊性の回帰を果たされたし。

陰陽相対なる両儀を目して、認識となし、その奥に空則なる太極を観るを、修行の第一となすべきである。更に、陰陽混沌たる太極より、一切純然にして性命の脈打つ

常に変わらざる眞理を満たし、新たな完成へと向かいし胚胎の様は、修行者の性命に赤赤と燃える血液を注ぎ込むに違いない。行に於ける法悦とは、実に、この時生ぜしむのである。決して、超常現象の類として、とり上げられるものではない。

会員諸氏よ。呉々も誤りなきよう、眞にして眞なる霊性覚醒の道を求められよ。其れは、決して傍目に奇跡とも超能力とも映るものではない事を、霊(たましい)の奥玄から智らねばならない。

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